お笑いは、誰のためにあるのか。
簡単なように見えて一番難しい問いのように思える。
客ウケ
身内ウケ
そもそも自分たちが楽しけりゃなんでもいいって考え
色んな捉え方がある。
正直、それでいいと思っている。
どこに評価されたくてやってるかなんて人それぞれで、ケチをつけることなんてできない。
僕は普段社会人として働いているのだが、こういったことは往々にしてある。
例えば、係長がどの方面にウケを取りに行ってるか。
出世意欲が強くて上司の顔ばっかり見て仕事してる人
まず第一に係員のことを考えて動いてくれる人
そもそも自分のことしか考えないで動いてる人
結局、分かれるものだ。
けど、それはそれぞれが選んだ道であって誰もケチをつけることはできない。たとえ好き嫌いがあっても。
だけど、立場が違うと思うところも出てくる。
先ほどの係長の例えでいくと、
上司の顔ばかり見て仕事してる係長は
上司からすればいい係長
係員からすればダメな係長
になる。
見方が変わるわけだ。
ここで大事なのは、どちらの声が大きいか、だ。
声が大きい方が、正しい見方として捉えられてしまう。
先ほどの例でいくと、上司に力がなければ係長は悪と捉えられてしまう。
要は
「誰が正しいか」
の価値観に依存することになる。
これは非常にまずいと僕は思う。
お笑いのように、絶対的な正解がない文化に対して正誤の判断を誰が下せようか。
それを、声の大きな人が言うことによって正誤がつけられてしまうのは非常に危険なことである。
昨今の#検察庁法改正案に反対します
の運動も、この流れに則っている。
事実をねじ曲げて捉えている内容を、
有名芸能人が拡散することで
「絶対的正しさ」を帯びてしまう。
これはあってはならないことだ。
あくまで法的にロジカルに論じられねばならない法改正が、その正当性の是非もきちんと論じられないまま、数の暴力によって虐げられてしまう。
「誰が正しいか、じゃなく、何が正しいか、を追求したい」
そう言って検察に行った友人の言葉を、今なら理解できる気がする。