人は誰しも、何かしら趣味を持っている。
「無趣味です」と言う人でも、何かしら好きなこと、ついついやってしまうこと見てしまうものはあるはずだ。
表現活動をする人も少なくない。
社会人になってみると、そういった趣味をもつことで仕事のストレスを発散させているのだろうな、と思う。
小劇団に入り、演劇をする者
ネットで小説を書く者
絵を描く者
バンドを組み、演奏する者
お笑いコンビを組み、漫才をする者
…ん?漫才?
そう、明らかにお笑いだけが異質な扱いを受ける。
何故だ。表現活動という意味では、絵や音楽などと変わらないはずだ。
なのに、「お笑いをやっている」と言うと、驚かれることが多い。
何故だろうか。
ひとつ、自分の中でなんとなくの答えを見つけた。
笑いとは、「人間の日常生活の感覚に直結するもの」だからだ。
絵や小説、音楽における感受性と、
お笑いにおける感受性とは、明らかに違うものだと私は認識している。
絵や小説、音楽を普段から耳にする機会はさほどなく、また、そういったものから得る感動は、普段味わうことのない「非日常」的な要素も多分になく含まれていると考える。
能動的に動かなければ、そういったものに辿りつかないことが多いからだ。自分から本を読まなければストーリーの面白さに気付かないし、自分から音楽を聴かなければ曲や歌詞の良さに気づかない。細かいメロディラインや文体などは、普段触れる場面が少ない分、気にならない。
ところが、笑いは日常にゴロゴロ転がっている。
意図しようがしまいが、1日のうち笑うような場面は何かしら見つかるものだ。要は、他の表現活動に比べると「受動的」なものだと考える。
その分、笑いのパターンが多く、いわゆる「失敗」をネタにする「滑り笑い」も、お笑いならではのパターンであろう(バンド演奏が失敗してもカッコ良くはならないし、演劇でセリフが飛んでも人は感動しないだろうし)。
その分、作り込んだ笑いを表現することは難しい。日頃から笑うことに対しては、自分から求めずとも受動的に「知っている」人が多いから。
ここまで聞くと、お笑いという表現活動はなかなかに不利な様相を呈していると思えるが、私は逆に、「アマチュアとプロとの差が少ない」唯一の表現活動とも考える。
要は、練習量やセンスさえ備わっていれば、社会人をやりながらでも名前を売ることはできるし、面白いネタを作ることだってできる。
逆に、それがなければプロを名乗っていても簡単にアマチュアに追い抜かれるような世界なのだ。
M-1グランプリという大会ひとつ見ても、「変ホ長調」というアマチュアコンビがプロを蹴散らし決勝に進出したり、今回の大会でも、吉本興業の有名漫才師が続々落ちていく中、アマチュアコンビが3組も準々決勝に進出している。
もちろん、ネタ以外の部分で売れるのであればプロとなって事務所に所属することが重要となる。しかし、ネタの表現それのみに限って言えば、アマチュアでも十分に努力でカバーできる。それがお笑いの世界だと私は考えるのだ。
だからこそ、仕事はしながらでも努力は惜しまない。
自分の中の「ツボ」を色んな人に伝えたい、そしてそれは努力次第で実現可能だと信じて疑っていないから。
プロと呼ばれる人に、ネタでは負けないよう。
これは自分のプライドとの戦いでもある。
日常にある笑いだからこそ、非日常の表現でも気を抜かず、しっかりと研究する。
それが、自分のお笑いをやる理由。