自分に合ったお笑い、というものがある。
根暗な人がネアカの真似事でテンションの高い漫才をしても、根っからのネアカの人には勝てない。
ゆっくり喋る人が早口でハイテンポの漫才をしても、普段から早口の人には勝てない。
だから、それぞれの特性に合った漫才を追い求める。
漫才は本来、正解ないものだ。
多様な形があることで、多様な面白さが担保されるものだ。それはつまり、多様な価値観が認められているというものだ。
しかし、近年よく「賞レース向きの漫才」「勝てる漫才」という言葉を耳にする。
主にM-1グランプリ等で、審査員に評価されやすい、いわゆる「ボケ数が多く」「テンポが早く」「構成がしっかりした」という要素が詰め込まれた漫才だ。
近年ではM-1グランプリが力を持ちすぎて、色んな漫才師が画一化された価値観に矯正されて、それが絶対的な正しさであるかのようにもてはやされる場面をよく目にする。
正直言うと、もう鬱陶しい。
自分は自分のやり方で、笑いを取れたらいいじゃないか。皆んなが賞レースに向けてフォーム変えてどないするねんと思う。おんなじ形に当てはめられて、日本社会の縮図やないか。お笑いまでそうなってどうする。
お笑いをやる人たちの目的はそれぞれだろうけど、皆んなが皆んな賞レースだけを意識するようになったらおしまいやと思う。
自分たちのやり方で、自分たちのセンスで、賞レースを勝ち抜きたい。
今年、それを証明してみせる。面白いことをやれば、きっと「向き」じゃなくても振り向かせることができると信じている。
世の賞レース至上主義漫才に、真正面からぶつかっていく。